当会に寄せられた手記をご紹介します。
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アジア太平洋戦争と「消された巨大地震」 森 直樹
2011年3月11日、14時過ぎ。「ゆっくり横揺れ」が始まり、直ぐに自宅マンションの玄関ドアを開けた。
6階建て古い建物の1階なので、脱出用の「通常装置」だ。
「東北地方太平洋沖地震」が発生。「ジリジリ」と横揺れが強まっていった。3分ほどのところで、思わず「日本沈没?!」と口走ってしまった。横揺れはまだ続く、、、、。
その瞬間、1944年12月、45年1月、終戦後の46年12月の、「大地震の記憶」がまざまざとよみがえった。
この三地震、とりわけ、前の二つは、終戦間際とも言える時期に発生した巨大地震で被害は甚大だった。だが当時は戦時下。「戦時の情報統制」(軍機保護法)により、その被害の実相が、被災地域以外で語られることは、皆無に等しく、救援の手はほとんど差し伸べられなかった。本土空襲がはじまり、国民の戦意喪失を恐れた軍部は、「知らせず」ということで、この局面を乗り切ろう、とした。これらの地震の記憶(正確には、その断片)を交え、当時を振り返ってみたい。
わたしは、たまたま、縁故疎開(東京渋谷区から、父の郷里)で「岐阜県岐阜市近郊(現在の「各務ヶ原(かがみがはら)市」)に居り、被災した。当時、3歳になったばかりである。父はこの時出征、母と弟(1歳前)の三人家族であった。
★東南海地震(1944.12.7。13:35発生。マグニチュード8.0)
疎開先では、ご近所を含め、建物被害は多少生じた(物置が一部壊れたなど)ものの、人的被害は、皆無に近かったらしい。横揺れが長く続いた記憶は微かにある。そして、わたし個人は、昼食後のおやつの「乾燥バナナ」(当時バナナは貴重品。この燻製=乾燥バナナが好まれた)を、取りにもどり、そばにあった「軽便カミソリ」で、「左手人差し指」をしたたかに切ってしまった。今も、3㌢の傷が残っている。血まみれになりながらも、バナナを握りしめていた、という。
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地震の全体像を、以下、ご紹介する。
志摩半島沖が震源。静岡県、愛知県、三重県、和歌山県などで大きな被害。特に、愛知県下の軍需工場では、勤労動員による若者(中学生ら)の圧死が多かった、といわれる。にわか造りの工場(たとえば、「梁「柱」を省略したもろい構造)での犠牲者である。
翌日は、「12.8」。朝刊各紙は、軍服姿の天皇の写真を大きく掲げ、「一億特攻 大東亜戦争四年へ」(朝日新聞・一面)など、「開戦3年」の節目を「粛々と」報じた。
「東南海地震」の記事は小さく、紙面の隅においやられた。一方、アメリカでは、ハワイや西海岸に津波が到達していたこともあり、大きく地震のことを報道していた。「日本国民だけが事実を知らされず」のままであった。三重県尾鷲の津波高は9メートルを観測した、という。死者998人(大半が津波や沿岸部)、家屋全壊2万6130戸、家屋半壊4万6950戸、家屋流出3059戸。ちなみに、津波による死者数などは、資料により異なっており、「戦時下の異状」をここでも示している、といえる。
★「三河地震」(1945.1.13 3:38発生。 マグニチュード6.8)
先の「東南海地震」の余震が相次ぐ中、「活断層による内陸直下地震=三河地震」が発生した。寝込みを襲われた。切れ切れながら、わたしの記憶は鮮明。「布団ごと 三寸はねて土間に落つ」であり、「雨戸ずれ 戸外出られず また余震」という場面。表からは大家さんが「モリサーン、デナサイ!」と声をかけて下さるが、出られない。少ししてやっと脱出。近くの竹林に逃げ込む。余震の合間をみて、布団類を竹林に持ち込み、夜を明かした。怖さと寒さ。睡魔に襲われつつ、余震におびえていたようだ。
さいわい、家のなかはメチャクチャだったが、怪我などはまぬかれた。この型の地震が、すぐご近所でも被害に差があることを知ったのは、後年であった。なお、わたし自身の記憶は薄いが、のちに母から聞いた話をひとつ。この地震の10日前、1月3日に、名古屋市への大空襲があり、しばしば「空襲警報」が発令された。この時は、疎開先の真上でB29爆撃機から「焼夷弾」が多数落とされ、風に乗って、「岐阜市内」へと落下していった、という。
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「東南海地震」にくらべ、そのエネルギーは40分の一、という三河地震。その被害を概観してみる。直下型なので、突然、建物が倒壊し、下敷きになった場合が目立った、という。なかでも犠牲が多かったのが、集団疎開児童で「寺の本堂」内で就寝中に圧死した、という。「本瓦」の重さに、耐えられなかったのだ。そして、「空襲」を避けながら、「集団荼毘」が執行された、という実話も残っている。
甚大な被害にもかかわらず、新聞報道は、「東南海地震」より小さい扱いであった、という。死者2306名。全壊住宅7221戸、半壊住宅1万6555戸。津波被害はあまりなかったという。この地震の死者数も、資料によって異なっている。
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<付記>
個人的には体験しなかったが、1948年の「鳥取地震」の被害も、甚大であった。
「鳥取地震」(1948.9.10 17:37発生。マグニチュード7.4)鳥取市などを中心に、死者1083名、全壊家屋7485戸、半壊家屋6158戸であったという。
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★「南海地震」(1946.12.21 4:19発生。マグニチュード8.0)
和歌山県串本町の南約40㎞の海底付近を震源地とする巨大地震。以下、人的被害のみ、当時の内務省発表資料から抜粋する。死者1354名。負傷者3807名、行方不明者113名、被災者23万268名。
戦後復興期の大災害であったが、戦争末期の二つの地震災害との決定的な違いは、いち早く、被害が伝えられ、鉄道、港湾のそれぞれの被害も大きかったが、すぐに救援の手が差し伸べられた、という点であった。
一方、戦時中に襲来した「台風」「暴風雨」による被害は、1941.12.8の太平洋戦争開始時からの「気象情報の報道統制」により、常に「不意打ち」であったことを付け加えたい。「防災」より「軍事」が優先されたことによるツケは、すべて国民が背負うことになったのである。国民に「天気予報」が公開されなかったのは、1941.12.8から1945.8.21までの3年8ヵ月余りであった。手元の資料によれば、大きな台風が3回、集中豪雨が1回、死者1686名以上、行方不明470名以上、の大きな被害であった。なお、「以上」の中身は、43年夏の集中豪雨によるもの。「多数」としか、資料に示されていないのだ。
[最後にひとこと]当時「軍国乳幼児」のわたしは、主体的に戦争に参加したわけではない。だが、一人の人間としての「戦争責任」は、ある。還暦を過ぎてから、その気持ちは強まりつつある。
戦後70年のいま、「戦争立法」を急ぎ、「海外派兵」を追求する安倍政権。
わたしは「戦争反対」を表明する。「平和憲法」を守り、「平和国家」の建設に関わり続けたい。
[参考資料]*日本災害史事典1868-2009.編集:日外アソシエーツ編集部.発行:日外アソシエーツ㈱. *日本の津波災害 伊藤和明著.岩波ジュニア新書701.㈱岩波書店発行.
Source: 東京法律事務所憲法9条の会