「袴田事件」の再審(裁判のやり直し)を始めるかどうか、東京高等裁判所(大島隆明裁判長)の審理が前に進まない。傍で取材している立場から見れば「迷走」とも受けとめられる状態だ。しかも、やや危ない迷走である。

 1966年に静岡県で起きた一家4人殺害事件で死刑判決が確定していた元プロボクサーの袴田巖さん(79歳)に、静岡地方裁判所が再審開始を認める決定を出したのは、昨年3月のことだった。検察がこの決定を不服として即時抗告したため、審理は東京高裁で続くことになった。

 その後の経過は断片的に報道されるだけなので、一般の方々にはなかなか理解しづらいのかもしれない。袴田さんが釈放されたこともあり、街頭で支援活動を取材していると「無罪が決まったんですよね」と声を掛けられることもあるが、いまだに再審は始まっておらず、袴田さんの身分は「確定死刑囚」のままだ。東京高裁の審理が最初のヤマ場に差し掛かっているので、改めて現況を報告したい。

 「少し紛糾しました」

 7月10日に開かれた裁判所と検察、弁護団による三者協議。終了後に記者会見した弁護団は控えめに協議の様子を紹介した。しかし、その内容を説明する言葉からは、裁判所との間で厳しいやり取りがあったことがうかがえた。

 たとえば、こんな具合だ。

 「裁判所はこれまでの議論を抜きに、実験を実施することが決まっているかのような言い方をした」

 「裁判所が思いつきで実験をやりたいと言っているのに等しい状況を危惧する」

 「誰もやったことがない未知の実験。裁判所がやってみたいから実施するというのでは無責任だ」

 ここで実施するかどうかがテーマになっているのは、DNA鑑定の一手法である「選択的抽出方法」の検証実験である。

 選択的抽出方法とは、唾液や皮脂、汗が混じっている可能性のある血痕から、血液に由来するDNA型を選り分けて取り出す方法のこと。静岡地裁が実施した「5点の衣類」(袴田さんの犯行着衣とされていたシャツ、ズボンなど)に付いた血痕のDNA鑑定で、弁護団が推薦した法医学者・H氏が用いた。そして、袴田さんのものとされていたシャツの血痕のDNA型が、袴田さんとは別人のものとの結論を導いた。

 H氏の鑑定結果は地裁の再審開始決定で「新証拠」と認められ、死刑判決の決め手とされていた「5点の衣類」が袴田さんの犯行着衣ではないことを裏付ける根拠となる。これに対して検察は「選択的抽出方法はH氏独自の手法で有効性がなく、信用できない」と反論し、この方法の有効性を確認するためとして裁判所に求めているのが検証実験なのだ。

 これまでの東京高裁での審理では、検証実験を実施するかどうか、実施するとすればどんな方法を採るのかをめぐって、議論が続いてきた。

 弁護団の説明をたどると、裁判所は選択的抽出方法の検証実験について、当初は「少し気になるので疑問をそこだけ確かめたい」といったニュアンスだったそうだ。やがて「検討する必要がある」に変わり、弁護団との「押し問答」の末、それを退けるかのように「職権的に実施することを強く希望する」となった。それがなぜなのか、外部からは知る由もないが、少なくとも弁護団から見れば「検察寄り」とも取れる訴訟指揮に違いあるまい。

 弁護団は一貫して検証実験に強く反対してきた。選択的抽出方法はあくまで鑑定の効果を高めるためにH氏が使った「補足的な手順」であり、それがなかったとしても結果に変わりはなかったことを強調した。「すでに世界的に受け入れられており、科学的な合理性は十分」「即時抗告審の性格上、(検証実験のように)事実調べをやり直すことは想定されていない」とも主張した。

 しかし、裁判所の実験実施の意思が固いことがはっきりしてきた今春以降、弁護団は「絶対反対」の姿勢を転換し、「条件闘争」に移ることを決める。何より「このままでは東京高裁での審理が長期化し、早期の無罪獲得をめざす袴田さんのためにならない」と考えたという。背景には、検察が有利になるような条件で裁判所に検証実験の実施を決められかねない、との危機感があったようだ。

 そこで弁護団が提案したのは、検察から依頼を受けて独自に実験を行い「選択的抽出方法では20年前、16年前の血痕からDNAを抽出すること自体が困難だった」との意見書を東京高裁に出した法医学者・A氏と同じ血痕・同じやり方で検証実験をすることだった。A氏とは逆にDNA型を検出できれば「選択的抽出方法が古い血液からDNAを取り出すことを阻害しない」と確認され、「有効性がない」との検察の主張を否定できると立論した。

 一方、検察の提案は、科学警察研究所(科警研、警察庁の機関)が保管している10年前の血液に唾液を垂らして試料を作り、選択的抽出方法で血液のDNAを取り出せるか確かめる内容だった。弁護団は「DNAは時間の経過とともに減っていくので新しい唾液の方がDNAの量は多く、唾液のDNAを検出させるための誘導的実験だ」と強く反対した。

 ところが、裁判所は検察案をもとにした実験法を提示する。10年前の血液に混ぜる唾液の量を少なくする方式だ。弁護団の提案が古い血液だけを使うやり方だったのに対し、裁判所は古い血液と別の生体試料(唾液、皮脂など)を混ぜることにこだわったという。

 これを受けて、検察は新たな方法を持ち出した。DNAの量が古い血液と同じ比率になるように、混ぜる唾液の量を減らして試料(疑似的混合試料)を作るというものだ。検察は6月末に、この方法の正当性を主張する科警研の意見書を提出。冒頭で紹介した7月10日の三者協議では、この意見書をめぐって議論が交わされ、検察の提案に好意的な裁判所に対して、終了後の会見で弁護団の不信感がにじみ出たのだった。

 弁護団は、疑似的混合試料による検証実験に強く反対している。40年以上も前に味噌タンクから発見された「5点の衣類」に付いた血痕のDNAの量や劣化の程度は科学的に推定できないし、他の生体試料の付着の有無、時期、種類、量、状態は不明だ。だから「5点の衣類と同等もしくは類似すると評価できるような条件設定はそもそも不可能」と指摘したうえで、「試行錯誤で検証実験を行ったとしても『結果』の評価をめぐってさらに複雑な論争が生じるだけ」と主張している。こちらの方が、説得力があると思う。

 弁護団が不信感を募らせるのは、裁判所が何のために選択的抽出方法の検証実験に前のめりになるのか、その目的が明確にされていないからのようだ。

 たとえば、静岡地裁の再審開始決定が間違っているとみているからなのか、それとも鑑定手法としての有効性を入念に確認しておくためなのか。それによって、求められる検証実験のやり方や精度は当然変わってくる。目的がわからないまま実験をしても、その結果がどう利用されるのか疑心暗鬼になるばかりだろう。

 東京高裁は早ければ次回・8月13日の三者協議で、検証実験の方向を示すとみられている。「何をどこまで審理するのか、枠組みを決めてから議論しましょう」という弁護団の言葉に、きちんと耳を傾けるよう求めたい。

 ところで、何度も語られているが、袴田事件のおかしな点は静岡地裁が新証拠と認めた2点に限らない。再審請求審の過程でも、新たな事実が相次いで判明している。

 たとえば、装着実験で袴田さんには小さくて履けなかった「5点の衣類」のズボンに付いていたタグの「B」が、サイズではなく色を表していたこと。大きなズボンが味噌に漬かって縮んだのではなく、最初から小さいサイズだったのだ。しかも、検察はそのことを知っていたのに、もとの裁判では隠し通していた。

 袴田さんが逮捕されて5日目の弁護士との接見の様子が、警察によって盗聴・録音されていたことも明らかになった。刑事訴訟法が保障する「秘密交通権」の侵害という重大な違法行為である。自白を取らんがための1日平均12時間にも及ぶ起訴前の無理な取り調べと合わせて、違法を重ねた捜査の状況が改めて浮き彫りになりつつある。

 裁判所は、再審請求の審理をことさら技術的な論点に矮小化させることなく、証拠上も明らかなこうした諸状況も勘案し、速やかに大局的な判断をしてほしい。

Source: マガジン9

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