教科書展示会に行きアンケートに記入しましょう

6月から7月にかけて、中学校の教科書採択に向けた展示会が各地で開かれています。
侵略戦争を美化し歴史の真実から目を背ける育鵬社の教科書が採択されないよう、アンケートを書くことが重要です!
ぜひお住まいの展示会に足を運んでください!

教科書展示会2015①
教科書展示会2015②
Source: 東京法律事務所憲法9条の会

【手記】アジア太平洋戦争と「消された巨大地震」  森 直樹

当会に寄せられた手記をご紹介します。

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アジア太平洋戦争と「消された巨大地震」      森 直樹

 2011年3月11日、14時過ぎ。「ゆっくり横揺れ」が始まり、直ぐに自宅マンションの玄関ドアを開けた。
6階建て古い建物の1階なので、脱出用の「通常装置」だ。
「東北地方太平洋沖地震」が発生。「ジリジリ」と横揺れが強まっていった。3分ほどのところで、思わず「日本沈没?!」と口走ってしまった。横揺れはまだ続く、、、、。
その瞬間、1944年12月、45年1月、終戦後の46年12月の、「大地震の記憶」がまざまざとよみがえった。

 この三地震、とりわけ、前の二つは、終戦間際とも言える時期に発生した巨大地震で被害は甚大だった。だが当時は戦時下。「戦時の情報統制」(軍機保護法)により、その被害の実相が、被災地域以外で語られることは、皆無に等しく、救援の手はほとんど差し伸べられなかった。本土空襲がはじまり、国民の戦意喪失を恐れた軍部は、「知らせず」ということで、この局面を乗り切ろう、とした。これらの地震の記憶(正確には、その断片)を交え、当時を振り返ってみたい。

 わたしは、たまたま、縁故疎開(東京渋谷区から、父の郷里)で「岐阜県岐阜市近郊(現在の「各務ヶ原(かがみがはら)市」)に居り、被災した。当時、3歳になったばかりである。父はこの時出征、母と弟(1歳前)の三人家族であった。

★東南海地震(1944.12.7。13:35発生。マグニチュード8.0)
 疎開先では、ご近所を含め、建物被害は多少生じた(物置が一部壊れたなど)ものの、人的被害は、皆無に近かったらしい。横揺れが長く続いた記憶は微かにある。そして、わたし個人は、昼食後のおやつの「乾燥バナナ」(当時バナナは貴重品。この燻製=乾燥バナナが好まれた)を、取りにもどり、そばにあった「軽便カミソリ」で、「左手人差し指」をしたたかに切ってしまった。今も、3㌢の傷が残っている。血まみれになりながらも、バナナを握りしめていた、という。
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 地震の全体像を、以下、ご紹介する。
志摩半島沖が震源。静岡県、愛知県、三重県、和歌山県などで大きな被害。特に、愛知県下の軍需工場では、勤労動員による若者(中学生ら)の圧死が多かった、といわれる。にわか造りの工場(たとえば、「梁「柱」を省略したもろい構造)での犠牲者である。
翌日は、「12.8」。朝刊各紙は、軍服姿の天皇の写真を大きく掲げ、「一億特攻 大東亜戦争四年へ」(朝日新聞・一面)など、「開戦3年」の節目を「粛々と」報じた。
「東南海地震」の記事は小さく、紙面の隅においやられた。一方、アメリカでは、ハワイや西海岸に津波が到達していたこともあり、大きく地震のことを報道していた。「日本国民だけが事実を知らされず」のままであった。三重県尾鷲の津波高は9メートルを観測した、という。死者998人(大半が津波や沿岸部)、家屋全壊2万6130戸、家屋半壊4万6950戸、家屋流出3059戸。ちなみに、津波による死者数などは、資料により異なっており、「戦時下の異状」をここでも示している、といえる。

★「三河地震」(1945.1.13 3:38発生。 マグニチュード6.8)
 先の「東南海地震」の余震が相次ぐ中、「活断層による内陸直下地震=三河地震」が発生した。寝込みを襲われた。切れ切れながら、わたしの記憶は鮮明。「布団ごと 三寸はねて土間に落つ」であり、「雨戸ずれ 戸外出られず また余震」という場面。表からは大家さんが「モリサーン、デナサイ!」と声をかけて下さるが、出られない。少ししてやっと脱出。近くの竹林に逃げ込む。余震の合間をみて、布団類を竹林に持ち込み、夜を明かした。怖さと寒さ。睡魔に襲われつつ、余震におびえていたようだ。
さいわい、家のなかはメチャクチャだったが、怪我などはまぬかれた。この型の地震が、すぐご近所でも被害に差があることを知ったのは、後年であった。なお、わたし自身の記憶は薄いが、のちに母から聞いた話をひとつ。この地震の10日前、1月3日に、名古屋市への大空襲があり、しばしば「空襲警報」が発令された。この時は、疎開先の真上でB29爆撃機から「焼夷弾」が多数落とされ、風に乗って、「岐阜市内」へと落下していった、という。
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「東南海地震」にくらべ、そのエネルギーは40分の一、という三河地震。その被害を概観してみる。直下型なので、突然、建物が倒壊し、下敷きになった場合が目立った、という。なかでも犠牲が多かったのが、集団疎開児童で「寺の本堂」内で就寝中に圧死した、という。「本瓦」の重さに、耐えられなかったのだ。そして、「空襲」を避けながら、「集団荼毘」が執行された、という実話も残っている。
 甚大な被害にもかかわらず、新聞報道は、「東南海地震」より小さい扱いであった、という。死者2306名。全壊住宅7221戸、半壊住宅1万6555戸。津波被害はあまりなかったという。この地震の死者数も、資料によって異なっている。
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<付記>
個人的には体験しなかったが、1948年の「鳥取地震」の被害も、甚大であった。
「鳥取地震」(1948.9.10 17:37発生。マグニチュード7.4)鳥取市などを中心に、死者1083名、全壊家屋7485戸、半壊家屋6158戸であったという。
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★「南海地震」(1946.12.21 4:19発生。マグニチュード8.0)
和歌山県串本町の南約40㎞の海底付近を震源地とする巨大地震。以下、人的被害のみ、当時の内務省発表資料から抜粋する。死者1354名。負傷者3807名、行方不明者113名、被災者23万268名。
戦後復興期の大災害であったが、戦争末期の二つの地震災害との決定的な違いは、いち早く、被害が伝えられ、鉄道、港湾のそれぞれの被害も大きかったが、すぐに救援の手が差し伸べられた、という点であった。

一方、戦時中に襲来した「台風」「暴風雨」による被害は、1941.12.8の太平洋戦争開始時からの「気象情報の報道統制」により、常に「不意打ち」であったことを付け加えたい。「防災」より「軍事」が優先されたことによるツケは、すべて国民が背負うことになったのである。国民に「天気予報」が公開されなかったのは、1941.12.8から1945.8.21までの3年8ヵ月余りであった。手元の資料によれば、大きな台風が3回、集中豪雨が1回、死者1686名以上、行方不明470名以上、の大きな被害であった。なお、「以上」の中身は、43年夏の集中豪雨によるもの。「多数」としか、資料に示されていないのだ。

[最後にひとこと]当時「軍国乳幼児」のわたしは、主体的に戦争に参加したわけではない。だが、一人の人間としての「戦争責任」は、ある。還暦を過ぎてから、その気持ちは強まりつつある。
戦後70年のいま、「戦争立法」を急ぎ、「海外派兵」を追求する安倍政権。
わたしは「戦争反対」を表明する。「平和憲法」を守り、「平和国家」の建設に関わり続けたい。

[参考資料]*日本災害史事典1868-2009.編集:日外アソシエーツ編集部.発行:日外アソシエーツ㈱. *日本の津波災害 伊藤和明著.岩波ジュニア新書701.㈱岩波書店発行.

Source: 東京法律事務所憲法9条の会

あれから十年余…私のこころの遍歴 その(9)

あれから十年余・・・私のこころの遍歴・・・
<私達の社会、特に九条そして核エネルギー>その(9)

核エネルギーをもう一度考えよう。

 狭い国土を保有する日本が、広大な地域を不毛化させ、15,000人もの人命を失い、人類史上類例のない被害を経験したわけです。「絶対にこのようなことが、二度と繰り返えされてはならない」思うのはまさしく当然のことでしょう。これは、情緒的、心情的、エモーショナルな絶叫です。しかし、日本人はこの思いを完全共有していません。日本は核エネルギーを100%放棄できないと、考えている人は多数います。
 核エネルギーを完全放棄した場合の、(負)要素つまり、ネガティブ・リストを考察してみましょう。いやそれは全く不要だ、ただひたすら廃止する以外ない!…では問題は絶対解決しません。以下そのネガティブ項目です。

a)3.11福島災害以来、日本の原発を停止して以来、電気料金を値上げしても、各電力会社の営業成績は赤字化した。高額な化石燃料を輸入せざるを得ないからです。原発を稼働しない現状が続くかぎり、安定した電力の供給は確保できないかもしれない。日本の工業生産に支障をきたす可能性あり。
b)その結果、日本の産業は安い潤沢な外国での電力を求めて、生産を外国に移転する可能性。全体的失業率の低下の可能性。燃料価格暴騰とあわせ、失業率低下により、現在維持している有数の工業国としての生活レベルを下げざるを得ない可能性…ないとは言えない。
c)日本が核エネルギーを完全奉仕しても、諸外国は、安全性の低い、核エネルギーを稼働続行・拡大し、万一事故発生時の被害は日本も同じく受ける。
d)核エネルギーを放棄し、化石燃料への依存度を高めると、その分だけ温室ガスの排出は増大し、大気汚染を促進する。現に日本は化石燃料使用増加のため、京都プロトコールを守れないワースト国に一つに数えられている。
e)天然資源燃料が有限なのは疑いない。再生エネルギー(風力、水力、地下エネルギー、ソラー・エネルギーの開発も進むだろうが、時期的に間に合うという確証から、現在は程遠い。

 勿論このネガティブ・リストに記したシナリオが実際に全て発生するとは言えません。しかし、十分想定しなければなりません。核エネルギー放棄の(正)要素のみを見て、このような(負)ネガティブ要素を顧みないのは、正当な議論で派内ばかりでなく、極めて危険です。

 実は不特定多数の日本人が危惧しているのは、これらの問題が現実に起きるかもしれない、起きたらどぅしたらいいのだろうと、迷いあぐねているからです。いや、例え、そのために、現在享受している快適な生活を放棄し、生活水準を、50年前に、いや100年前に戻しても、核エネを放棄すべきだ…というのであれば、それはそれで立派な結論です。
21世紀現在、我々が維持している生活レベルを維持したまま、核エネは完全放棄すべきだ、いやそれは我々の責任外の分野だ、我々は考えなくてもいいのだ…と主張するとすれば、それら責任ある市民とは言えないでしょう。

 さてさて、以上が10年余前に「九条の会すずか」に加入して以来の、現在の私の心境の変遷と、心境そのものです。なんだお前、自分自身のこれらの問題について何も言っていないではないか…と言われるかもしれません。「私の意見はこうこうです。どうぞ皆さん同調してください」と言うのがこの文の目的ではありません。いろいろ有識者の意見をきき、情報をお集めください。しかし、最終的にこれらの件について結論を下すのは、お読みいただいた皆さん個人です。そしてそれにしたがって行動してください。

最後までお読みいただいた皆さん、ありがとうございました。(重田)


Source: 九条の会すずか

7周年の集い6月6日

3日目も、200人近くの参加がありました。

内田麟太郎さんの講演「「詩と戦争」
↓概要はこちらでお読みになれます。
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ハングル絵本に見る朝鮮文化、李相祚さん。img src="/kodomono/timg/middle_1433709329.jpg" border="0">

那須田淳さんの講演「ぼくらは歴史から何を学ぶのか」。ドイツでの生活と戦争への思いを語られました。「ドイツでは、国家が変わらない限り、憲法も変えてはならないとされている。日本は九条があるから、参戦しない理由を世界に示すことができた。これを変えたら、必…
Source: 子どもの本・九条の会

7周年の集い6月5日

2日目も300人くらいくの参加者があり、大盛況でした。

早乙女勝元さんの、東京大空襲や、現在の憲法の危機にまつわる講演会。「一歩前に踏み出し、無関心な方にも声をかけて、いっしょに手をつなぎ、大きな輪を作っていきましょう!」
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Source: 子どもの本・九条の会

若葉台「九条の会」・5月憲法サロン

5月の憲法サロンは「集団的自衛権の問題点とそれをめぐる動き」です。まさに安倍政権によって提出された「戦争法案」の国会での審議が始まったばかりの今、会場いっぱいの35名の参加者で椅子を補充するほどでした。
講師は横浜弁護士会の「憲法出前講座」を通じて依頼した、みなと横浜法律事務所の内嶋順一弁護士です。
日米間の防衛協力、ガイドラインの推移、集団的行使と政府見解、、新安保法制の問題など、詳細なレジュメをもとに分かりやすく話していただきました。日本が戦争に巻きこまれる危険がますます増大することことに対して、あらためて私たち一人一人の市民が声をあげていく必要性を強く感じました。そして講演の最後では、「日本が他国の罪もない市民を殺傷することは許せない」と強く話されていました。
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Source: 若葉台「九条の会」